え?まだ「わたなれ」を読んだことがない?
いいから1巻を読んでくれ。
(小説1巻のネタバレなし感想はこっち)
※ここからは「わたなれ」小説3巻までのネタバレを激しく含みます。
「ガールズラブコメ」とはいったいなんだろう?
女の子たちのハッピーな日常と、ハッピーな恋路を描き続ける「みかみてれん」。そんな先生は、どういう作品かを分かりやすく伝えるために、「ガールズラブコメ」という呼び名を生み出した。
可愛い女の子たちが物語の中でイキイキと過ごす。その中で、笑いあり涙あり、ちょっぴりえっちで、ちょっぴり感動できて、読み終わったあとは晴れやかな気持ちになれる。
「ガルコメ」は私にとってそんなジャンルだった。
しかし、私は一種の物足りなさも感じていたのだ。わたなれは確かにとても楽しい体験ができる。だが、「読者が予測できる展開しか起こらないのだろう」と、心のどこかでそう高をくくっていた。
しかし、その予想はやすやすと裏切られる。
それが、『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)3』だ。
私はこの作品が本当に好きだ。しかし、これほどまでに愛憎相半ばする感情を抱えるとは思っていなかった。この感情がいったい何なのか、今までまったく分からなかった。
3巻をすでに5回ほど読み、1、2巻を読み返してようやく「ガルコメとは何か?」について少しだけ理解し、まとめることができたと思うので語らせてほしい。
この作品に出会えたことは心から感謝している。しかし、同時に後悔もしている。それは3巻を読み終わったあと、腹の底から慟哭し心がひき肉になるほどの辛い思いを味わったからだ。
それでは語っていきたい。
この作品は、可愛い女の子たちが日常の中でイキイキと過ごす。そんな生ぬるい物語ではない。
ガールズラブコメは、彼女たちが「自身の幸せを求めてもがく物語」だ。
(「わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)3」より)
「彼女たち」の姿
さていきなりだが、誰しも知っている「GU」と「ユニクロ」というアパレルブランドがある。
存じている方も多いだろうが、両者は同じ傘下のブランドだ。なぜブランド名をわざわざ分けているのだろうか?
両者の違いを考えてみよう。価格?若者向けかどうか?それもあるが少し違う。GUは「トレンド志向」、ユニクロは「大衆志向」なのだ。*1
つまり服飾業界のブランドは、誰に「売りたい」かによって「売り方」や「デザイン、機能性、価格帯」が変わってくるのだ。
人もこれと非常によく似ていて、見せたい相手によって魅せ方や中身(デザイン、機能性、価格帯といった商品の内容)が変わる。平たく言うと、外面(そとづら)や内面(ないめん)、キャラクターが変わってくることがある。*2
彼女たちの意外な側面はメインで描かれたあとでも読者を驚かす。知らないことがまだまだたくさんだ。
わたなれのキャラクター達もみんなそうだ。
彼女たちは、家や学校、職場などの場所、家族、友達、好きな人、ライバルといった人、様々な場所、様々な人の前でどう見られたいかを意識してふるまう。場に適した「キャラを演じる」というのはとても人間的で普遍的な価値観だ。*3
わたなれのキャラクター達に存在感がある理由は「そこ」で、彼女たちは一貫性があるキャラクターとして描かれていない。
彼女たちはいくつもの側面を見せながらも、心の中では悩み、苦しみ、駄々をこね、時には自分の考えや望みと矛盾するようなことをやってのけたりする。しかしそれでも、彼女たちの心情に説得力があるからこそ、この作品は魅力にあふれているのではないだろうか。
…ノーコメントで。初見びっくりしすぎて「えっ…ごめんなさい」って謝っちゃった。
「彼女」の思うこと
小説の中のキャラクターの心情を知るための手がかりは、何も文章で書かれていることだけではない。文章として書かれていないことも重要なファクターとなる。そう、つまりは行間を読むことだ。
わたなれ3巻は、これまでの「みかてれ百合作品」と比較して行間を読む必要が多い。
深読みのしすぎでは?と思うかもしれないが、みかみてれんは意図して今までの作風と少し変えている。*4
ここで少し、本編で含意があるシーンを見ていこう。
「 本編 第二章」の序盤、瀬名紫陽花とれな子がおうどん屋さんで会話するシーンだ。
「紫陽花さんが日ごろからひそかに思っている悪口とかをいってくれれば…」
「ええ~…?そんなの」
紫陽花さんは思い出すみたいに、じとーっとわたしを見つめる。
(中略)
妙な緊張感の中。
紫陽花さんは半眼で、ぽつりと口にする。
「れなちゃんって…誰にでも優しいよね~」
このシーンは彼女の心情がとても分かりやすい。日頃から思っていることを彼女にしては珍しく皮肉で言っている。「れなちゃんって…(私だけじゃなくて)誰にでも優しいよね~」と幻聴が聞こえてくるようだ。
そして極めつけは「本編 第三章」の終盤、家出旅行が終わって帰りの駅ホーム、
急行列車が通り過ぎるアナウンスが流れた。
次の電車はまだ来ない。
「私もね、その」
「うん?」
「れなちゃんに言おうかと迷っていることがあって」
しばらく、紫陽花さんはなにも言わなかった。
「あのね」
「…うん」
「れなちゃんのこと」
急行列車が目の前を通過する。
「ー」
(中略)
こちらを見て、紫陽花さんがはにかむ。
「つまんない話」
このシーンを最初見た時、「タイミング悪っ!?一昔前のハーレム系ラブコメかよ!?」と思ったが、瀬名紫陽花は明白に、列車が通り過ぎるタイミングでその言葉を口にしているのだ。
人は本当に伝えたい思いがある時、「ホームに近づいてくる列車のアナウンス」を聞いておきながら話し始めたりはしない。
つまりそれは、伝えたいけど、伝わってほしくない言葉だ。れな子を好きだと教えてくれた真唯や、れな子本人を困らせてしまう話だと感じているからこそ、その「話」は彼女にとって「つまんない話」なのだろう。
きっと彼女は天使なんかじゃない
私は1巻の感想で散々、瀬名紫陽花のことを天使だと崇め奉り褒めちぎったが、3巻でその幻想を徹底的にぶちのめされた。
というより、彼女に対して神聖さや不可侵性を感じていた私に対して、『まだ高一(15歳)でただの「こどな」である彼女に、そんな重いものを背負わせて恥ずかしくないの?』と、等身大の瀬名紫陽花や真唯を経由して、みかみてれんに思いっきりぶん殴られた気分だった。
「瀬名紫陽花のお話 第四章」で描かれた水族館のシーンがすべてである。
私はこの場面が、わたなれという物語の中でいちばん好きだ。
水族館でふたりきり。
好きだという想いをれな子に打ち明けるよう、真唯は瀬名紫陽花を諭す。「れな子の天使でいたかった」と、苦しみながら恋をしている彼女へ向けて、真唯はこう言った。
真唯が頭を傾げて、もたれかかってくる。
彼女の体温を感じる。
「On n'aqu'une vie. 人生は一度きり。女の子であるなら、恋をするべきさ」
真唯がささやいてきた。
「そして君は最初からずっと、ただの可愛い女の子だったよ」
竹嶋えく氏の挿絵の相乗効果もあって屈指の名シーンだ。
この言葉で、私は本当の意味で「それ」に気がついたのだ。
瀬名紫陽花は、「ある少女に恋をした、ただの可愛い、普通の女の子だった」と。
紫陽花さ…彼女を、今までのように尊称で呼んでしまうと、延々と書き綴りたくなってしまうため、この感想では概念としての「瀬名紫陽花」としている。彼女については、3巻に書かれていると思ったので、これ以上深く掘り下げるといったことはしない。
ただひとつ言いたいのは、「私が彼女を『天使』と呼ぶことは、もうないだろう。」ということだ。(もちろん他の方がそう呼ぶのは良いと思う。だって実際天使のようだしね)
ペンタゴン百合について
さて、ここで「ペンタゴン百合」の話をしておかなければならない。
突然、何をワケのわからないことを言ってるんだ?と思うかもしれないが、わたなれを語る上でとても重要なことだ。
「五角形(pentagon)」とは、5つの頂点と辺を持つ多角形の総称だ。そしてわたなれのメインキャラは何人だろうか。そう、「5人」だ。
ここに正五角形がある。この正五角形に対角線を引く時、五芒星が生まれる。この時、対角に真唯グループのメンバー5人をひとりずつ配置すると、ちょうど5人全員が繋がる関係が生まれるのだ。
ここで指すのはクラスメイト、友達、恋人、気になる人、「れまフレ」などさまざまな関係である。
人と人との関係は本当に多種多様で、それこそ言葉で語りきれないくらいに複雑である。そんな、泣きたくなるくらい複雑な人間模様が「ペンタゴン百合」の真髄だ。
ここで少し疑問に思ったのが「れまフレ」という関係についてなのだ。れな子と真唯のふたりでアップデートしていく関係、友達と恋人で揺れ動く振り子のような、もしくは、友達と恋人というふたつの丸い円が重なる部分のような関係と語られている。
つまり、ふたりの関係は今のところきちんと決まっているわけではない。だが、この呼称自体、彼女らの関係にムリをして名前を付ける必要がないから生まれたものだ。
この「関係」の本質は、「友達」か「恋人」か、どちらかの関係に落ち着く必要はあるのか?という問いなのである。
そして、ここにもうひとり参戦してきた場合は?という新たな火種も燻っている。それが3巻のラスト、本編エピローグでダイナマイトの導火線に火をつけたれな子が、答えを出さなければいけない事柄だ。彼女は、周りの人とこれからも誠心誠意、積極的に関わっていかなければならない。
その先が苦悩と決断に塗れていたとしても。それが彼女の選んだ道であり、彼女自身の成長と幸せを掴み取るために必要なことなのだから。
みかみてれんには人の心がない
さて、3巻を読み、感想をここまで読んでくださった皆様には伝わると思うが、みかみてれんには人の心がない。
大事なことなのでもう一度言うが、『みかみてれんには人の心がない。』
え?ここまで読んでも分からない?いいだろう。なら3巻の結末をまとめてみよう。
みかみてれんは3巻で、ひとりの女の子が友情と恋のはざまで揺れ動く内面の機微を描ききった。これについては、彼女をここまで深く掘り下げて描いてくれてありがとう。と感謝しかない。
しかし問題はその後だ。
これは2巻のれな子と紗月さんに対しても言えることだが、あそこまで深く掘り下げておきながら、彼女らはメインカプではない。
あくまでも物語の中心は、「れまフレ」という関係についてだと私は思っている。*5
そして、彼女らを負けヒロインと捉えてしまうとそこから先は地獄なのだ。そして、私を抜け出すことができない地獄の螺旋に閉じ込めたのはひとえに3巻の終わり方だ。
もし、あそこでれな子が瀬名紫陽花をフるか、告白の返事を描写しない展開だったのならまだよかった。
読者としては、甘くほろ苦い失恋の疼痛に共感しながらも立ち直るか、文学的に素晴らしい展開だと(失恋した結末を想像して)涙しながら前を向くか。そのどちらかだったに違いない。
しかし、あろうことか『あの』れな子は、瀬名紫陽花の「私と付き合ってください」の言葉に、頭が真っ白になりながらも「はい」と頷いたのだ。
流石に、私は、キレた。
それはもちろん、「はい」という返事の内容自体にではなく、ここまで瀬名紫陽花の恋路について描いておきながら、付き合う可能性が50%、付き合わない可能性が50%ずつ存在する、確率が重ね合わせ状態の結末についてだ。なんだこれは??シュレディンガーの猫か?????
もし、きちんと考えた上で「はい」だったのなら、もちろん良い。れなあじの誕生の瞬間だ。また、きちんと考えた上での「いいえ」の場合でも、もちろん大丈夫だ。私はれな子の意思と選択を尊重する。そして逆に、返事を描写しない形だったら文学的には全然アリだ。モヤモヤは残るがほとんどフラれたのだと解釈して、読者的には前に進めるだろう。そして最後に、「考えさせて!」とかなら、「れな子そういうとこだぞ~w」となりながら4巻の発売をポジティブに心待ちにしていたことだろう。
しかし、これである。
これである。
実質、この展開はレイニー止めであり、読者を苦しめるために悪意に満ちた作者が仕組んだ策略だろう。*6
「百合を書く作家なら、一度はレイニー止めを商業誌でやりたいと思わないか?」という、みかみてれんの悪意に満ち溢れた愉悦の声(CV:中田譲治)が聞こえてくるようだ。
みかみ手練…!手練手管のみかみてれん…!!
そして、メタ的な読みとなってしまうが、みかみてれんが執拗にれな子を追い詰めていることについてだ。*7
彼女は友情と恋愛感情(とその他の感情)の境目で悩み、そこから成長していく女の子として描かれている。
ふたりに告白された彼女は、今現在区別がつけられない感情に、答えを出すように迫られている。これはふたりを心から大切に思っている彼女に対して、あまりにも酷な展開だ。*8
友達か恋人か。真唯か瀬名紫陽花か。彼女は自分自身の手でどちらかを切り捨て、選ばなければならない崖っぷちに立っていることになる。 *9
作者はこの記事で「ガルコメ」の主人公たちについて語っている。
私がここまで今後の展開を悲観している理由は、結末で判断しているわけではなく、「本編 第四章」でのれな子の独白、
ーで、月並みな言葉だけど。
(中略)
進んでしまった時計の針は、夏休みの前には、もう戻らないんだ。
のくだりのせいである。少し長いので読み返してみてほしい。明らかに試練を予感させる内容だ。*10
読み終わった後だと、タペストリーのスマホ写真に不穏な雰囲気を感じてしまうのは気のせいだろうか。
そう考えるとあそこまで遠慮のない態度をとれる紗月さんという存在は、れな子にとって心のオアシスなのだ。(あんな毒沼みたいな心のオアシスある?)
あそこまで忌憚のない会話ができるのは、お互いを友達として見ているからであり、また彼女が「自身を恋愛対象として見てくることが一生ない」と、れな子が感じているからだ。
つまり、ちょっとやそっとのことで壊れない関係(親友)だとれな子は感じている。それは互いに思ってないと成立しない「シンパシー」のはずだが、紗月さんは絶対に認めないだろう。口に出したら殴られかねない。
れな子が3巻で語る「友達」のクソデカ太字にはそんな信頼も見え隠れしている。
3巻唯一の欠点と総評
さて、ここまで愛憎の念が入り混じった感情を感想に込めて書いてきたが、この3巻には唯一純粋な欠点がある。私はこの点にがっかりしたし、他の読者もそうだろう。それは何か?
香穂ちゃんの出番がほぼ無いのだ。
台詞にいたっては、脳内香穂ちゃんのポジティブボイスの他一つもない。ここだけが残念だったが4巻は彼女がメインのようなので我慢するとしよう。
まとめよう。
瀬名紫陽花というひとりのキャラクターを、あそこまで描ききったみかみてれんには尊敬の念を禁じえない。彼女はとても可愛らしく、誰からも愛される。まるで天使のような女の子だ。しかしそれだけではけっしてない。普通の15歳の少女と同じように良いところも悪いところもあり、好きな子に恋をし、悩み、苦しむ。
それが瀬名紫陽花というひとりの女の子だった。
そして3巻の結末について。私は「人の心がないガールズラブコメ」を生み出した悪魔として未来永劫、みかみてれんの名前を記憶する。「ぜったいにゆるさんからな…」という気持ちでいっぱいである。
「瀬名紫陽花のお話 エピローグ」は、体中傷だらけで床を這いずるような気分で読み進めた。
『なぜ私たち人間には心なんて存在するのか』と考えたりもした。
「夏休みが終わり、紫陽花の恋はここから始まる。」の一文に希望を覚え、れな子の苦悩を考えてまた絶望した。
この巻のせいで、「ガルコメ」や「わたなれ」に対する私の印象は大きく変化し、もう二度と、1巻や2巻を読んでいた頃のような気持ちには戻れないだろう。
私は3巻の結末にはぜんぜん納得していない。けれど紫陽花さ…瀬名紫陽花にはずっとずっと幸せでいてほしい。
れな子には悪態をつきまくってはいるが彼女にももちろん幸せになってほしいと思う。そして真唯、紗月さん、香穂ちゃんもだ。ここまで作品を憎んでも、結局はきらいになんてなれないのだ。
…ああ、そうか。
それでも好きなんだ。
私はそれでも、どうしようもなく、「わたなれ」が好きだ。
彼女たちが何を感じ、何を思っているのかを知りたい。この作品をもっと読みたい。自分でも気づかないうちに、私は「わたなれ」という作品に「恋」をしていた。だからこそ何度も読み、他の人の感想を見て、考え、解釈し、この文章を書いているのだ。
ならば、この感想は憎しみだけの文章なんかじゃなく。
作品や作者、読んだ人、この作品に関わった人、この作品が好きなすべての人に送る、「ラブレター」だった。
私はそれに気づいたから、この言葉を最後に送ろう。
わたなれ、大好きです。4巻も心から楽しみにしています。
*1:もちろんユニクロもトレンドを反映してはいるが大衆受けを第一としてデザインされている
*2:その側面が一番強いのが、3巻終了時点でもいまだに素を晒さない「小柳香穂」だと思われる
*4:おそらく今後の展開のためだと思われる
*5:ただし、この作品が本当にペンタゴン百合だった場合、メインカプという概念は存在せず5人全員が物語の中心であり主役といえる
*6:本当はそんなことない…はずだ。たぶん
*7:物語的に必要な展開だと理解しているが…
*8:彼女は「恋人より友達のほうが安定している」と思っているが、ふとした拍子で交友関係が壊れてしまうこともあると思う。それが中学時代の彼女だったはずだ
*9:ただし、れまフレの問題の本質で語ったように、どちらか一方の関係、相手という問題ではないのかもしれない
*10:ただ、彼女らは日々成長しているので3人が険悪な雰囲気にはならないはずだ。少なくとも、真唯と瀬名紫陽花の仲が悪くならないのは、水族館でのふたりの様子を見ても明らかだろう