――主、憐れめよ。
ブルアカ、メインストーリーVol.3「エデン条約編」をクリアしました。良かった。あまりにも良かった…。
「対策委員会編」、「時計じかけの花のパヴァーヌ編」も面白かったのだが、生徒達が友情で苦難を乗り越え、努力で打ち勝つ物語…というあまりにも(そして意図的に)ありきたりだったため、個人的にはあまり刺さらなかった。
Vol.3もその流れを汲んでおり、「文学的ではない(ありきたりな)テクスト」だと作中、ゴルコンダにも難色を示されているが、それでも、生徒達の思いはあまりにもリアルで、それを目の前で見ていた私は、いつの間にか彼女たちの『先生』になっていた。
誰が嘘つきで誰が裏切り者か分からず、命を狙われ疑心暗鬼になってしまった生徒。
天才と讃えられ、その才にすり寄ってくる者たちに疲れ果て、その末に自分の居場所を見つけた生徒。
残酷な世界で打ちのめされながら、それでも抗うことをやめなかった生徒。
すべては虚しいものだと教えられながら、仲間を大切に守り続けていた生徒。
そして、最初は純粋だったはずの想いはいつの間にか、歪み、崩れ、黒く染まって、どうしようもなくなってしまった生徒。
私は彼女達の想いの数々に、心を打たれた。
憎悪と恐怖、そして悪意、その黒い感情が渦巻くどうしようもない世界で、それでも『信じる』という綺麗事を口にして、それを実行し続ける『大人』になりたいと、私は思った。
目次
3章までは、”いい”生徒たちの物語
さて、Vol.3の1~3章は概ね補習授業部という、"いい"生徒たちの物語であり、彼女たちのかがやきが光る物語であった。
彼女たちは他人を『信じる』というその一点によって、他人の悪意を退けていく。アズサやハナコ、ヒフミとすばらしい魅力を見せてくれたが、特に好きだったのがコハルの『正義』だ。彼女は3章にて、自らのシンパにリンチされていたミカを助ける。この場面に私はとても感動した。
ミカに受けた仕打ちを考えもせず、それは間違っているからやめなさいと言える純真さが美しくて、どこまでもカッコいい。
彼女は疑いようもない、自分の正義を実現する人間だと言えるだろう。
あまりにも気高くて泣きそうになった
3章までを"いい"生徒たちが活躍する物語とすると、4章からは対称的に"悪い"生徒たちが活躍(?)する物語だろう。
比肩し、まさに鏡写しと言えるミカとサオリの二人が主人公であり、4章の中心となる。
ミカが嫌い、だからこそ惹かれる
私は当初、ミカという人物がかなり嫌いだった。
人種的偏見を隠そうとしない発言、ちぐはぐな行動の数々、あまりにも浅はかな行動、それらをドン引きしながら見ていたのだが、だからこそ彼女はとても人間らしい。彼女が吐き出す悪感情の生々しさに、どこか懐かしさすら覚えていたのだ。
大天使ミカエルの名を冠するが如く、彼女は特に理由もなく(本当に理由もなく生理的に嫌いなのだろう)、見た目が悪魔であるゲヘナを蛇蝎のごとく嫌ってみせる。しかし別校だが同じトリニティだった分派、アリウス分校には同情を寄せて、仲良くしたいという支離滅裂さがある。*1
セイアのことを政敵として憎んでいるとも、友人として愛しているとも取れる行動の数々。心のバランスを崩してからの行動となるが、幼馴染で仲がよかったはずのナギサへの暴挙。
ここに彼女の人間性が見える。
彼女は直情的で考えが浅く、気分屋で、発言自体に芯が通っていない。だが、その弱さ、脆さ、ちぐはぐさは若い時なら、そしてもしかすると今でも、誰しもが持ち合わせているもので、だからこそとても人間らしく映った。
私は最初からそれを忌み、そしてそれに惹かれていた。
そして4章、何もかもめちゃくちゃにしてしまい、最初の思いすらまったく忘れてしまった時。
復讐の対象であるサオリとぶつかり合うことで、自身の一番最初の気持ちを思い出す。それこそ最初は、単純にアリウスと和解したいという思いだった。
彼女のしてきたことは許されることではないだろう。また、もしゲヘナ嫌いに理由があったとしても、何であれ特定の学園を排除していい理由にはならない。
また、セイアを殺害した(と思い込んだ)事態を作ってしまったのも、短絡的思考の結果であり、これについても同情することはできない。
だが、だからといって彼女を見限ろうとも、他の生徒たちに石を投げられて当然だと私は思わないのだ。
なぜか?
それは、彼女が実は"いい子"だったからでも、実は苦しんでいて同情したからという憐憫でもない。
それは、彼女が愛されているからだ。殺そうとしたはずのセイアに、ナギサに。ほとんど接点がないはずのコハルに。そして、先生に。
信頼とは、盲目的に相手を信用し、一方的に頼りにすることではない。
信頼とは、愛であり、互助の関係である。相手が間違っていると思ったら話し合うし、相手が困っていたら助け合う。
本当の信頼とはまさに、ミカを助けたいと願って聴聞会に一緒に出席しようとしたナギサ(とセイア)の姿だと思う。*2
結局、私は生徒たちがお互いを本当の意味で信頼し合い、手を伸ばしたいと望むのならば、いつでも力になりたいと思ってしまったのだ。
ミカは結局のところ、『悪役』というロールから抜け出せなくなっていたのだろう。
『悪役』という言葉がピッタリ嵌るように、『トリニティの裏切り者』という仮面を被り、セイアを殺してしまった(と思い込んだ)ことで、自らを罰するようにどこまでも堕ちていく。
彼女の暴走はほとんど自罰的で、セイアが死んだと思いこんでからは、
「私はこういう人間(悪い子)なんだ。だからトリニティの裏切り者として動かなければいけないんだ」
と言わんばかりの振る舞いを見せていた。
これは4章でも顕著で、『トリニティの裏切り者』としてのロールはなくなったが、思い込みの激しい面はセイアが目の前で倒れ、罪を責められた(ように感じた)ことによって、むしろ悪化している。これは口癖のように「私は悪い子だから」と繰り返すことからも分かる。
また、
「私はこういう人間(悪い子)でこんなに苦しんでいるのに、その元凶となったサオリのような悪い子はなぜ苦しんでいないの」
と、彼女は考えていることも分かる。
ここは、ほとんど逆恨みで的外れだが、ある意味で的を得ているとも言える。境遇はまったく違えど彼女たちは恐ろしく似ているからだ。
大切であるはずの者を傷つけ、不幸にする。二人はそんな自らの性質に苦しみ、現状に、現実に絶望する。
最後の最後でミカは、鏡写しであるサオリの不幸を望んでいるが、彼女が不幸なままではその対称となる自分も決して幸せになれないことに気づく。
私は、この瞬間にミカ、そしてサオリに、先生として寄り添いたいと思った。
彼女らの姿に、ただの同情ではなく、”慈悲を”と。そう願ったのだ。
教育という名の憎悪習慣
洗脳という要素は、スクワッドメンバーのサオリやミサキのように聡いはずの人物がまったく疑問を呈していなかったため、予想していた。
また、旧約聖書の「空の空、空の空、いっさいは空である」から始まる *3教えは、虚無主義のようなものではなく、生の無常さと人生の無意味さ、そして現実世界の不条理を唱えながらも、それを直視して生きることの教えである。これをわざと曲解して教えている人物がいることも、想像できていた。
だがしかし、それが洗脳能力のような類いではなく、憎悪を上から煽る形で"教えられていた"というのは想像よりも酷かった。
口調が変わるほどの怒りを先生が見せるのも当然で、ベアトリーチェが行ったという大人による大人のための『子供の搾取』、憎悪を用いて思想を植え付けるという『教育の冒涜』、そして本来大人が見守るべきはずの『子供の支配』。
ベアトリーチェがあまりにも先生の地雷を的確に踏むので、わざとやっているのか…? もしくは先生を逆なでするマクガフィンとして、対になる存在なのかと思ってしまった。というか、聞いてもいないのにべらべらと語りすぎである。
先生がベアトリーチェに放った「黙れ 私の大切な生徒に話しかけるな」は語り草だろう
先生は教育者の鑑だと断言できる人物であり、キャラクター性はプレイヤーの分身として限定的ながらも、それだけは確固たる信念・意志を持って行動している。(一部の生徒にヘンタイ行為をするのはいいのか?とよく言われるがそこはご愛嬌)
Vol.1でも生徒を利用し搾取しようとする黒服と対立し、敵対関係にこそあったが、あそこまで敵意をむき出しにしていなかったように思われる。
それはやはり、前述のように一つでも敵対理由になるような、教育者としての自身の理念と、人道に反する行為をいくつも目の当たりにしたからだろう。
先生の教育者の姿、大人としてあるべき姿は、Vol.3でも引き続き大きく取り扱われていた。そのため、ブルアカのテーマの大きな一つでもあると強く感じた。
総評
総評として、Vol.3で私はどっぷりブルアカにハマってしまった。
思惑、欺瞞、謀略が渦巻く、政治的対立から程遠いと思われていた補習授業部から始まり、陰謀に巻き込まれた生徒らが、信頼を持って大切な友人を助ける。
それらは、思い返してみればVol.1とVol.2でも変わらないブルアカの骨子であり、彼女らのまぶしいほどに青い青春の物語(ブルーアーカイブ)だ。
そして、なんと言ってもミカやサオリといった、道を違えた少女たちを見限らず、最後まで見守ることこそが『信頼』であると再確認させてくれたこの物語を、私は先生として、最後まで見守って行きたいと思う。