サブリミナル白昼夢

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【批評】 若輩が見た『花束みたいな恋をした』のうっとおしさ

普段、クソ映画を観たとしても感想を口にすることはない。

なぜなら、好きな映画について語ったほうが楽しいし、好きな作品を布教したほうが作品のためにもなるからだ。

ただ、たまに「クソ映画でも観て感性を養わないとな」と思う時がある。

何が好きかを言語化するより、何が嫌いかを言語化するほうが(普通は)難しいからだ。

 

さて、今回「花束みたいな恋をした」という好き合った男と女が破局するまでの過程を描いた、いわゆる失恋映画を観た。

前評判はすでに聞いていて、一定の信頼を寄せているとあるブログなどの批評を見ると評価が低く、対象的にGoogleなどのプラットフォームで上位にきていた批評を見てみると評価が高い。

 

これはプラットフォームの検索エンジンの仕様上の問題かもしれないが、体感で2:8で高い評価の方が断然多いように感じた。

しかし、少数ではあるが、批判している内容の方が納得できる内容だったので、私はクソ映画と認識して見た。もちろん少数派の意見が間違っている可能性もあるので、実際に見てみないと批評できない。

というわけで、私はアマゾンプライムビデオに飛んで▷ボタンを押した。

 

結論だけ言うと、2時間の拷問だった。

 

あまりにも浅い『現代風の』若者

この映画は、現在(2020年)すでに別れた二人が、別の異性とカフェでお茶している時に偶然顔を合わせ、過去(2015年)の出会いまで遡る。

ここで主人公の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)の二人が別のカップルを指し、「あの二人音楽が好きじゃないな」「イヤホンのLRは別の音で~」「ちょっと注意してくる」という、しょーもないウンチクとだいぶ雑な批判を語るシーンが冒頭に来る。

この時点で彼らは、過去の出来事から何も成長していないのだろうという推測ができ、すでに嫌な予感がしていると思うが、残念ながら本編は終始このノリで進む。

 

この作品のいいところを探すのは難しいが、とりあえず挙げてみよう。

まず、モブとして登場するオダギリジョーの顔がいい。私も膝枕してもらって、その時、酔っ払って口走った「ラーメン屋に行きたい」という話を覚えていてくれたら、たとえワンナイトだとしてもオダギリジョーと寝てしまうかもしれん。他に良いところは…ないな。それくらいかな。

 

次に、批判的な部分を書き出してみる。

まず、この映画は若者向け(10~20代後半や30代前半)であると思うが、それらの世代に対しての解像度が極端に低い。この映画では、固有名詞の羅列が連呼される。

宝石の国ゴールデンカムイ、と有名な作品が名前に挙がるが、彼らの作品の趣味はちぐはぐであり、それでいて「押井守」を神と崇めるようなニッチな、この世代にはアングラすぎる時代遅れ感がある。

押井守は、GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊などで『不完全な人間より、壊れてもまたすぐに直すことのできる球体関節人形のほうが優れている』というような思想を、作品の中に描いたりするような人物で、「そんなの今の世代(公開年の95年ですら)には通じねえよ(笑)」と思ったりするのだが、そんな若者を『現代風』として描いている。

残念ながら、2015年に挙げるには彼は古すぎるし、生粋の押井守のオタクにしては描写されるサブカル趣味の脈絡のなさに、彼らのオタク的アイデンティティの空虚さが浮き彫りとなるだけとなっている。

ちなみに私は、押井守について「古臭くてカビの生えた時代遅れの監督」とボロクソに書いているが、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』はものすごく好きだ。アニメ版とキャラの雰囲気が違いすぎるといった批判があるかもしれないが、日本の戦争と欺瞞について描いている点は本当に傑作だと思う。

 

話はズレたが、オッサンが「若者を描きました! ホラホラ、今の若者ってこういうのを読んでるんでしょ? 好きなんでしょ? こういう感じなんでしょ?」と言わんばかりの軽薄さと図々しさを、この映画からは感じずにはいられないのだ。無意味な固有名詞の連発で、上っ面だけの態度が浮き彫りになっているが、『今の若者に寄り添ってリアルに描いていますよ』とでも言いたいのだろうか。

 

それでいて、麦と絹はどこが好きなのかを語り合うことも、作品に対する感想や感情を言語化したりもせず、熱量がまったく見えない。というより二人は、終始コミュニケーション不足で、彼らが凡庸である以前に、人として取るべき最低限のやりとりすらしていないように見える。

これは、今の若者が自称「コミュ障」と言ってコミュニケーションを避けることや、作品に対する熱意を何も持ち合わせてことに対する痛烈な皮肉なのだろうか? と思ったが、少なくとも私がオタクと認識している同世代の人々には、作品に対する熱量を持ち合わせており、SNSで日々共有して布教しようとうるさいくらいだ。

しかし、作中での彼らは、ツイッターやインスタグラムなどのSNSをやっている描写は皆無で、ストリートビューで映った姿に興奮して自慢するだけに留まる。また、友達と呼べそうな相手とすら最低限の会話もしていないように見える。そんな若者いるかよ。

 

もしかするとこの映画は、サブカルが好きな人』に向けた作品なのではなく、サブカルが好きな自分が好きだった人』に向けた映画だったのだろうか。

そうだとしたら、刺さらなかったとしても仕方のない事かもしれないが、それではあまりにもターゲットとなる層を馬鹿にしている。しかし、それで感動したと抜かしている人々もいる訳で、その人達には悪いが、作品に馬鹿にされている事に気づかないのだろうかとも思ってしまう。

 

貧困は若者たちにとって当たり前である

キャラクター造形が空虚で、個人としての思想や核もなく、感情を劣化させた人たち。そんな人々を、現代人の『リアル』だとこの作品は申しているのだろうか。

本作の脚本である坂元氏は「憧れでも懐かしさでもない、現代に生きる人々のラブストーリーを描きたいと思った」とインタビューで語っているが、こんなのが巷に溢れていたら日本は滅ぶし、実際そうだとしたらそんな国はさっさと滅んだほうがいい。

まあ、本作の評価が高いのは示唆的ではあるのだが。そんな体たらくでは、くたびれた時代遅れのオッサンたちから「これだから最近の若者は」と鼻で笑われても仕方ないだろう。

 

サブカル全盛期と呼ばれるゼロ年代以前の、監督や脚本家たち彼ら50代の趣味を無理やり、登場人物たちのキャラクターに組み込んだとするのならそれでも良い。だが、問題は前半の、サブカル趣味を軽薄に楽しむ大学生活だけでは留まらない。

後半では取ってつけたように、貧困にあえぐ若者たちの姿が描かれる。確かに若者の貧困は喫緊の課題ではあるのだが、それは何も社会に出てからではなく、大学時代からであろう。

彼らは『普通』の大学生として描かれるが、普通の大学生は家賃5万以上、駅近の風呂トイレ別アパートになぞ住めないし、教育一般貸付(いわゆる教育ローン)によって、日々首を絞められ続けバイトに明け暮れている。少なくとも、シーンが切り替わる一瞬で引っ越しましたと言えるようなお金なぞ、すぐには工面できない。

製作者たちは明らかに現代の『普通』の基準が高く見積もりすぎている。実家が太く、仕送りを受け取れる彼らはその時点で恵まれているのだ。

ここにも、この作品の無理解がにじみ出ているようで、ずっと鳥肌が立っていたのだが、「分かっていますよ」と言わんばかりのパターナリズム的なおせっかいをこの映画から感じるのだ。彼らこそが『普通』の若者で、それを俺らはきちんと理解しているのだと。

 

情熱のない『現代風の』若者

そして、麦はパズドラしかできない己が貧しいというような文脈で語るが、なぜパズドラが貧しさの象徴なのだろうか?

パズドラを浅薄なゲームだとする風潮が気に食わない。プレイ時間(ゲームの上手さ)に比例した結果が返ってくるし、操作時の触感もストレスをまったく感じさせず大したものだと思う。

パズドラは暇なスキマ時間にできるが、それはプレイヤーが貧しいからではなく、操作が快適で、プレイヤーが努力を積み重ねた結果がゲーム内で返ってきて楽しいからだ。

 

また、後半では彼が、サブカル趣味に情熱を無くしていく過程を描いているが、「元々たいして好きでもない趣味に、暇じゃない社会人になって興味が薄れるのは当たり前だろう」という指摘は飲み込んでおいて、まず、ある物が好きな人は、趣味か仕事かという単純な対比はしないのではないだろうか。

彼らは、どうにかして趣味と仕事を両立させようとする。もし映画が好きならば、彼らはどんなに時間がなくても、隙を見てはむさぼり食うように作品を摂取する。そうしないのはただ単に飽きただけでは? と思ってしまうのだ。(私もたまに飽きるが)

結局、彼らはサブカルを心から愛する)オタクではなかったという解釈がストンと腑に落ちる気がするのだ。

 

曰く、何者にもなれなかった人間が、その現実から目を背けるようにオタクにならざるをえなかった『消極的なオタク』か。

フィクションを心から愛するが故にオタクになった『積極的なオタク』か。

オタクには、この二種類のタイプがいると言われているが、結局のところ彼らは何者でもなく、前者にしかなれなかったのだろう。

そういう人に刺さる、そういう人のための映画なら、Not for meと言えるのかもしれないが、あたかもそれが『普通』の若者として描写されているのが何よりも腹立たしい。

若者のサブカルへの熱意を軽薄に描写し、愚かな行動を生暖かい眼差しで見つめるがごとく描き、取ってつけたような貧困を背負わせて『感動的な』恋愛映画を作る。

これでは、誠実な態度で話を聞くフリをして人を騙す詐欺師と同じではないか。

我々の愛を舐めるのもいい加減にしろ。

 

まとめ

本作はまったくもって救いようのないくらい面白みのない、『うっとおしい大人の』映画である。

しかし、何よりクソシットうんこなのが、彼らの無理解と無知と偏見に溢れた主張を、勝手に若者に夢と希望と称して、代弁され、押し付けられる映画が未だ残ることだ。

『若者に未来を託す』という綺麗事が、年寄りが実現できずに、負債を阿呆みたいに増やしただけの絶望的な未来を押し付けられ、それがいまだに美辞麗句としてまかり通っていることが、何より腹立たしい。

最近だとゴジラ-1.0にもその要素があり、そんな年寄りたちの身勝手な偏重ゴミ過多クソ荷物は捨ててしまえと思ったのだが *1、これはまた別の機会に語ろう。

 

お前らの夢を託すのはいいが、少なくとも何を紡ぎ、どんな未来を描くかは若者たちに決めさせろと、口角泡を飛ばす勢いでこれからも論じたい。

 

*1:これが何も背負っていない、若造の身勝手なわがままだと思うのならそれでもいいが、もしそれを継承して、次の世代まで負の遺産を残してしまったのなら、貴方はその年寄りたちと同じである