サブリミナル白昼夢

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【早咲きのくろゆり】グロテスクで残酷な世界で百合を真摯に描いた傑作百合ゲー 前編【感想・考察】


早咲きのくろゆり(1000-REKA)より

さて、こんな記事タイトルを見たファンが怒り狂って罵倒を浴びせたくなるかもしれないが、少し落ち着いてほしい。

……落ち着いただろうか?

では言わせてもらうが、早咲きのくろゆりというゲームの世界観があまりにも気持ち悪く、グロテスクだ。

待ってくれ、石を投げないでほしい。

最初に断っておくが、私はこのゲームが大好きだ。

このゲームは『百合ゲー』であったと自信を持って言える。それはプレイ中も、そしてクリア後も変わることはなかった。

もし、このゲームをプレイしていないのであれば、即刻ブラウザバックしてSteamから体験版をダウンロードすることを推奨する。この記事はネタバレの嵐だ。

ちなみにグロテスクな、と言っても内臓血しぶきが飛び出るたぐいのグロテスクはない。至って『普通』の美少女ゲームだ。

 

さて、これを読んでいる読者と同じように、私もまあまあ百合歴が長いと思う。

その中で培ってきた『百合のセオリー』として私が(勝手に)考えていることがいくつかある。

その一つに、
『男性性は登場しても基本、かませか協力者』
というものがある。個人的に「少女革命ウテナ」や「RWBY」あたりが百合の指針としてちょうどいいだろうか。

その他にもセオリーは色々ある(そもそもとして「こういった要素がある/ないから百合」と断言することはできない)のだが、ここでは省かせていただこう。

さて、本作はこの百合のセオリーを十分満たしている。また、ビジュアルノベルで薄くなりがちなゲーム性についても文句のない手応えと面白さだった。

本作のシナリオは緩急があって読みやすく、ほどよい難易度で謎解きの要素もある。入力方式の選択肢で没入感を生み出し、プレイヤーとキャラクターの構図をうまく百合とゲームに落とし込んだ作りは、率直に言って見事だ。

原案・原画のフカヒレ氏が描く繊細で美しいキャラクター達に、しっかりとした肉付けがなされていて、読み進めるたびにキャラクター達を好きになっていった。

では、この作品の何が気持ち悪いのか? を問われればただ一つ。

世界観、つまり現代~近未来 *1 と思われる日本の舞台設定だ。

 

昨今の百合について

まず、本作の世界観について語る前に、昨今の百合の潮流について語っていきたい。

青春を題材にした作品が流行っているのは昔から変わっていないとして、現代では一口に百合と言っても、語りきれないほど様々な関係や歳の差カップル、ポリアモリーなど複雑に多様化してきたように思える。

また、同性愛について(ようやく)受け入れられたおかげもあるのか、恋愛対象が同性によることの葛藤を描く作品は少なくなった。

これは、前回体験版での感想にも書いたのだが、百合が同性同士の困難と現実問題の描写を放棄したからではない。それらの葛藤を描くことよりも作者が描きたいことを優先させた結果だと見ている。

少なくとも、百合小説にはその困難 *2 について描いた名作はたくさんある。

ただし、漫画媒体に関しては少しばかり特殊と見ていて、読者からの意見等を受けて、同性愛の葛藤に関する描写を意図的に減らしているように思える。

この点については一読者には想像することしかできないし、本筋から外れるので多くは語らないが、現在手元にある比較的新しい百合漫画をいくつか手にとって、読んでみるといいかもしれない。

ちなみに私は、差別描写を「描くべき/描くべきではない」という双方の主張のどちらにも乗ることはない。なぜならそれを描くのを決めるのは制作側であり、読者はそれを読むのを決めることしか出来ないからだ。

ただし、それを『描いた結果』 どうしたいのか? については批評させていただく。今回の批評がまさにそれだ。

その他にも、同性愛者の厳しい現実を生々しく描写すると、読者に受け入れづらいので描写を控えるということもあるだろう。しかし、多様化した百合の時代(全盛期、あるいはその手前の混迷期か?)であえて描く作品も多い。

 

くろゆりの世界観

では、早咲きのくろゆりは何を描きたかったのかというと、やはり「同性であることの葛藤」と「それによる緊張と弛緩」、つまり「そこから生まれるカタルシス」と「彼女達のリアルな感情」なのだろうと感じた。

ここでようやく、舞台設定の話に繋がってくる。本作の舞台設定はそれを補強するための要素なのだ。

主人公の笹森花についてだが、勝手に断定することは誠に失礼ではあるのだが、レズビアンだと思われる。彼女はその自らのアイデンティティを否定されることを恐れ、無意識なのか見ないようにして隠し続けてきた。彼女の性的指向については「着替えを同性に見られるのが嫌」という意識からも分かる。

しかしそんな彼女が過ごしている世界が、本作で描かれる日本だ。この国では、未だに同性愛について無理解と無知、偏見が蔓延っている。人前での着替えを嫌がるだけで自意識過剰で変な人と言われ、学校という社会の縮図のような場所で同性愛者だとバレたらただでは済まないだろう。


『普通』を押し付けられ、生きているだけで『個』を否定され続ける世界

彼女が環境への適応、つまり生存戦略として『普通』を演じ、優柔不断で引っ込み思案な性格になるのも無理はない。

現代日本と同じか、もしかするとそれよりも酷い、異質(普通と定義されたものから外れた)なものに対する排斥感情が強い社会としてこの国は描かれている。

これらは、犯罪を犯した(罪を償ったはずの)者への社会的態度を見ていれば分かる。彼らの扱いは言ってしまえば二級市民の扱いであるし、矯正内容は秘匿されているとはいえ矯正者は、犯罪を犯した者に対する矯正拷問と洗脳を当然と考えているようだ。どうやら、この国には憲法というものは存在しないらしい。

本作ではまともな大人が花の姉(と花の母)くらいしか出てこない。責任を果たすべきはずの他の大人達が情けなく見える。

私が『グロテスクな世界』と言ったのは、この点も含まれていて、この世界を形作ったはずの大人達があまりにも情けなさ過ぎるのだ。

ただし、そういった社会の中でも彼女達に対して理解を示し、それを当たり前として扱ってくれる人達も確かに存在していることは付け加えておきたい。


玲ちゃん、東京ギャルらしいがいったい何者…?

 

大人としての責任と社会的責任の不在

子供の一番の理解者になって守るべきはずの大人が、子供を裏切り、子供の個と人格を否定し、あまつさえそれがその子のためだと言う。控えめに言って虫唾が走る。


あまりのグロテスクさに笑いがこみ上げてくるシーン

この点は『大人としての責任』を描いた、子供の一番の理解者であり協力者である先生という大人を強く意識して作られた「ブルーアーカイブ」と対象的であると感じた。

ブルーアーカイブは『先生』という人物をプレイヤーとして描かれるため、早咲きのくろゆりに出てくる『教育実習生の先生』≒プレイヤーと似ている点もある。

しかし、『教育実習生の先生』には大人として情けない部分が目立つ。そういった事情からこの人物を『プレイヤー』と同一視すること、また『もう一人の主人公』と呼ぶ受け入れがたさもあったのは、ここで言っておこう。

さて、教育実習生の先生はともかく、笹森育や五十嵐に関して言えば、大人として、教育者として、親として失格である。過去に何があったとしても、彼らは赦されないことをしたと思っているが、そういった大人達を育ててしまった社会にも当然、責任があると思うのだ。

さて、この世界の社会集団だが、自分達が社会集団の中にいる少数者に対して「寛容である」という多数派の上から目線(甚だしい勘違い)が存在しているように見える。

そもそもおかしいのが、「はぐくみ政策」という政府の異常なまでの結婚推進政策で、つまり異性と結婚してセックスし、子供を産めよ増やせよという生々しい政策だ。

私は本作を、ディストピアSF百合(ジェンダーSF)として見ていて、「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ(小川一水)」を読むのと同じ感覚でプレイしていた。つまり、社会的規範と性差の問題提起を組み込み、物語としての深みを増す類の作品だ。しかし、それにしたって「はぐくみ政策」はあからさまにディストピアなので、CLIIに関連してもっと何か裏があるのかと思っていた。残念ながらこの国の政府が無能なだけだったが。

 

本作では、CLIIという架空のウィルス ウイルス(ウイルスと作中統一されていない)が登場するが、これによる急激な少子化・人口減少を食い止めるために、明らかに人権無視・憲法違反の政策方針と法律を制定(パンデミックがあったとはいえ未来の倫理観がヤバすぎる)している。それでいて、そういった政府の熱量と世間一般には乖離があるような描写もある。しかしこの国の国民は、こんな状況でも政府の言いなりなのだろうかと純粋に疑問が沸く

過去の若い五十嵐や、そのカフェで過ごしているモブ夫婦からも分かるように、同じ社会に属するメンバーであるはずの少数派を、多数派の彼らは切り捨ててのうのうと過ごしている。だが少数派が反抗的な態度を取った時、一層冷ややかな態度を示すのがなんともグロテスクに見える。

彼ら多数派がしていることは、結局のところ、少数者や社会的弱者を切り捨て見てみぬふりをしているだけだ。少数派から奪ったパイを(自分達が普通と認めた)人の中でのみ分配しているだけであり、そんなことを続けていれば、最初は穏健派だろうが追い詰められた彼らが牙を剥くのは当然である。

また、このように少数派や社会的弱者を犠牲にするのが『普通』となっている社会なら、明言されずとも旧来の常識に囚われて女性への負担を強いる男性優位な社会、男女平等からは程遠い社会であることは容易に想像できる。

実際、花の母である幹も、夫の仕事や家族を優先させた結果、自らの身を犠牲にしてしまったと見れるからだ。


彼女が生きていたのなら何もかも違ったかもしれない

 

ディストピア国家「日本」について

この世界でも相変わらず同性婚は成立しないと思われる。2000年を半分以上過ぎたはずの未来で、未だに同性婚すら実現しておらず、結婚というものに固執しているのは失望しかない。

よく言われる、「同性婚が実現すれば出生率が低下する」というのは根拠がないが、そもそも国家の繁栄のために結婚、出産をする人なぞ、この世界でもまれだろう。

はぐくみ政策により、十五歳未満の人口を409万人にまで抑えられているのは一定の成果があったと言えるが、少数の人間を切り捨てるような社会に未来はない。一人の人間を救うことは世界を救う。

逆に、世界を救おうとしているのに一人の人間すら救えず犠牲にする時点で、その方法は間違っている。何度でも言うが、少数を犠牲にして成り立った国家に未来はない。*3 *4

 

では、この国はどうしたら良かったのだろうか?

ここからは個人的な考えとなり、外部の記事も交えての考察となるが、まず現代日本のように先進国では、伝統的家族主義が強いほど人口が減少することが分かる。*5

国が画一的な制度に固執していては、いつまで経っても新たな家族形成は進まない。そのため出生率は下がっていくのである。

逆に多様な家族を認める社会が、親子のあり方にも寛容なのは想像できる。伝統的家族主義が弱い国ほど出生率が高いと言えるのだ。

家族の多様化を示す指標の一つが、結婚していない男女から産まれたいわゆる「婚外子」の割合であるのだが、婚外子の割合が高いほどその社会は家族のかたちにかかわらず安心して子供を産めると言える。 *6

 

家族の多様化が社会に受け入れられているのであれば、結婚だけを優遇するような制度は出てこない。同性婚についても保障されているはずであり、それらの基本的人権はすべての国民に認められているはずだ。

しかし本作ではそういった描写はなく、大学在学中に結婚すると学費無償化など、想定されているのはいつも異成婚のみで、同性愛者への風あたりは強いことが分かる。また保健体育の授業では『結婚した夫婦』を対象にしたアンケートの話題が出てくる。

以上のことから、この世界では、子供が出来たとしても夫婦として認められていなくては社会保障は受けられず、婚外子の割合は低いのだろうと考察(一応、子供だけでも利用割引されるサービスなどは存在するようだが)できる。

しかし、現代日本ですらそうであるように、結婚した異性の二人だけが「普通の家族」ではないのだ。

さて、出生率を大きく下がったのはパンデミックが大半の原因ではあると考えられるが、あの惨状でも結婚という『普通の家族』という形態に固執し、未婚化を減少させるために『独身税』という人権無視クソボケ課税を課したり、異常なまでの異性婚推奨政策を行うなど、この国の政府の方針自体にも問題があったと見れる。

これらの政策よりも、結婚に縛られずに家族の多様化」を受け入れることが、国の少子化対策としては一番効果があるはずだと私は考察している。

 

まとめると、未成年者の人口が半分以下まで減少するという未曾有の異常事態に直面しておきながら、いつの時代も人口の9%は存在していると考えられている同性愛者を差別し、切り捨てるのは愚策でしかない。

少子化の対策をしたいのなら結婚を前提とするような政策だけでは足りないのだ。他に行政サービスを法律婚と両性(性別に限らない二人)の同居を区別しない政策も増やせたはずだ。

また、不妊治療に対する保険と保障についても語られていたが、この範囲の拡充や、もはや近未来であるのならば、同性同士で子供ができる研究を進めたとしても何ら不思議はなく、それらを推し進めたほうがよかったはずだ。

同性愛者が社会に関わることを実質的に拒否し、異性愛者にならなければ(これこそ最高にグロテスクだ)社会的に認めない集団が政治に関わっている。そんな国はただの差別国家であり、正直その国を捨てて、まだ別の国に住んだほうがマシである。外国は外国でウイルスへの激しい偏見と人種差別があるかもしれないが。

一連のVvr実験については、手柄を立てたい政治家の暴走と見られているが、こんなことがまかり通ってしまっている社会の無関心さと、それを許した(あるいは消極的に許容した)大人達の責任については、当然批判されるべきだろう。

 

グロテスクな世界である必要性

本作はなぜ、ここまで完膚なきまでにグロテスクな世界観なのか?

これに答えると、早咲きのくろゆりは、差別的な日本の側面を強調したディストピア国家「日本」をデベロッパーは意図して作り上げることで、同性であることの葛藤とその緊張、カタルシスを補強し、彼女達が生み出す感情の現実感をより一層深くしたかったからだと言える。

これは本作で最も大切なものと言える、『花の気持ち』を安っぽく演出しないために必要な舞台装置であり、この舞台装置はグロテスクである必要があった。この舞台装置は現代日本まんまとも言えるが。

 

では、本作は同性愛をコンテンツとして消費することだけしか考えていない、悪意と偏見と無知にまみれた誠実さの欠片もない、百合ゲーの名を借りた駄作か?と問われたら、はっきりと断言できる。

“否”と。

本作は百合ゲーとして、一つの百合作品として、とても真摯に作り上げられているのがプレイしていて伝わってきた。


本作では『割り込む』というが、彼女の大切な想いに割り込むことはない

まず分かるのが、主人公へのプレイヤーによる干渉というシステムの「ほどよさ」だ。このシステムが百合への乱入と呼ばれないよう、最初からとても考えて組み込まれているように感じた。

本作ではプレイヤーは花の行動に介入はするが、彼女の意志そのものに介入しない(できない)ように作られている。彼女の(衝動的な)行動を止めたり、理不尽なループを打破するためのヒントを与える程度にとどめ、基本的には「花の大切な恋心には触れず、彼女を尊重する」ようになっている。

この介入という要素は、物語にカタルシスを生むか壊すかのとてもセンシティブな部分であるため、かなり苦労して作られたのだろうということがプレイ中にも伝わってきた。

樹への恋心を無理に推し進めるようなことはせず、かといってプレイヤーの分身となる教育実習生、矯正者の仕事として無理やり介入することもない。これにより、花が自らの意志を大切にして、本当の気持ちを掴み取る物語が完成した。

男性キャラの必要性

よく百合には「男性キャラは必要ない」と言われることが多い気がするが、私はそうは思わない。制作側が決める話なのは当然として、単純に登場人物が増えるほうが物語は増える(面白くなる可能性も増える)からだ。

男性キャラが百合を壊す警戒からそういう発言が出るのはとても理解できるが、その場合は「男性キャラは必要ない」というより「そのキャラは必要ない」であり、男性性への嫌悪感を過剰なまでに撒き散らすのは、ヘイトと何ら変わりがない。

本作はヘイト表現にもかなり気を使っており、早咲きのくろゆりではLGBTQ+に対するヘイト表現はない。現実に存在し生きる、すべての人々を尊重した物語になっている。

そのため、蠣崎や櫻井などのメインでからんでくる男性キャラも、そういった面をともなったキャラクターにならないよう、細心の注意を払って作られていたのも見逃せない。

蛎崎は、感情的に言い返したりするようなシーンはあるものの、彼自身もまた少数派であり、多数派からの被害者として描かれている。

彼に悪意はなく、また偏見や無知からくる自覚なき差別的発言もない。これらはプレイする上で地味に重要で、そういった描写でプレイヤーを辟易させることなく、物語の重要な存在として組み込まれていた。

個人的に、蛎崎が、樹のことを好きだとぶつかってきた花に「だいたい花ちゃんは女の子…っ」と失言するシーンがあるが、直後に謝り、後日再度本心からの謝罪したのは、悪い奴ではないのだなと伝わってきて良かった。ただその後、花に「友達としての好きでしょ?」という旨の発言をしたのでぶん殴りたくなったが。このヤロウ…。花は一回彼をぶん殴っていい。私は許す。


『言ってはいけなかった言葉』を、改めてきちんと謝ることができる男なのでどこか憎めない

しかし、彼らという男性性の存在は、『同性であることの葛藤』を描く上で必要な要素であったと確信している。

花が、自らの恋心を一過性の思春期特有の勘違いだと思い悩む中で、他の異性と結ばれたほうが幸せであるのではないかと、そういった苦しみを描く上での現実感を補うための重要な存在なのだ。

 

また、これは百合の主題から逸れるものではあるが、ひとつ大切な話がある。

同性愛を題材にした百合ゲームを語る上で、つまり、「百合ゲームという美少女ゲームの一種の中で、「男性の同性愛について描くことはタブーとならない。」

日本の美少女ゲーム史を眺めてみると、男性の同性愛について「真面目に」描いてきた作品というものは少なかった。勉強不足で申し訳ないのだが、そのような美少女ゲームを私は今までプレイしたことがない。*7

日本の美少女ゲームでは描写があったとしても、茶化して面白おかしくネタとして加えているだけか、中途半端に描写してバッドエンド扱いにするか、男の娘√としてあるだけだった。

後者はともかくとして、前者2つについては同性愛に対してあまりにも不誠実だし、控えめに言って胸糞悪いエンドだったのだが、美少女ゲーム史の中で男性の同性愛はネタでしかなかった。

はっきり言っておきたいのだが、この点については、過去の日本の美少女ゲーム制作側の恥ずべき点である。同性愛についての恋愛感情を笑えない冗談でしか描けないのなら、異性愛だろうが何だろうが恋愛感情について描くべきではない。

これは最近では少なくなり今はほとんど見なくなったが、未だにウケると思ってやっているデベロッパーがいるのなら、面白くないので今すぐやめたほうがいい。

本作はそういった昔の悪しき風潮を微塵も感じさせずに、蠣崎と櫻井の二人の関係を通して、性別を限定することなく恋愛について真摯に描いた作品だったと言える。

 

制作者の誠実さを伝えてくれた主人公

閑話休題

そして、何より真摯に作られていることを一番よく感じたのが、主人公である花の芯の強さ、彼女という一人の人間の魅力だ。

基本的にゲームというものは、プレイヤーとデベロッパーとの信頼関係で成り立っている。

プレイヤーはデベロッパーを信頼できなければ(クリアできると信じなければ)、ゲームを進めることはないし、デベロッパーはプレイヤーを信じて(最後までプレイしてくれると信じて)、私達がクリアできるであろう謎解きのゲーム要素やそれに並ぶ物語を組み立てる。

まるでミステリー小説の読者と作家の関係のようだが、プレイヤーとデベロッパーの信頼関係がゲームには必要なのだ。

百合ゲーについてもそうだ。

ディストピア世界だと体験版の時点で明確に描写され、悲劇的・露悪的な結末もありえる百合ではないかもしれないゲームを、なぜ私が最後までプレイしたのかと言われれば、「百合ゲーとしてクリアできる」デベロッパーを信頼したからだ。

そして、その橋渡しをしてくれた花という少女の存在があったからだった。

彼女は優柔不断で引っ込み思案だと自他共に認めているが、裡に秘めている想いはとてつもなく強い。

この意志は「樹を幸せにする」という言葉ではじめて明確に語られる。救ってくれた恩人に対しての友情としてはあまりにも強く、あるいは重く、過去を振り返った時点ですでに淡い恋心を抱いていたと見て良いだろう。

私は体験版でプレイしたこの意志の輝きに惹かれ、彼女を、ひいてはこのゲーム自体を信じてみようという気になったのだ。

 

彼女を語ることなしに、このゲームを語ることはできないだろう。

彼女は確かに進んで前に出る人間ではない。

しかし、彼女は他人が(そして自分が)大切にしているものを大切にできる素直さがあるし、蠣崎や五十嵐とぶつかった時からも分かるように、いざという時、自らの意志を貫きはっきりと言葉にする強さは誰にも負けない。それでいて、相手を慮って自分の気持ちを優先させるだけではない思慮深さも持ち合わせている。

彼女が矯正という名の洗脳に屈しなかったのは、教育実習生というプレイヤーの力添えもあったが、ほとんどは彼女自身の意志の力であると見れる。

これは、他人(中学時代の樹や教育実習生など)を惹きつける魅力もさることながら、夢の中だけではなく、実際にループ中の行動を現実でも起こしていたことからも分かる。

また、ループ時の放送室のシーンでは、五十嵐の暴走による介入だと思われるが、プレイヤー以外の人間がキーワードを強制入力する場面がある。

この場面では、その強引すぎる洗脳に全力で抗って樹へ本心を打ち明ける。そのような状況で自らの意志を貫徹することは、誰にでも出来ることではない。私はあまりにも美しい彼女の姿に胸を打たれた。


花(CV:伊吹誓乃)の叫びも相まって屈指の名シーンとなっている

彼女がなぜここまで洗脳に心を折られなかった理由は、単純にVvr技術への感応性が低かったとも考えられるが、Vvrへの抵抗力が強い点というのは作中で挙げられている。

この洗脳への抵抗力というのが、彼女の意志の力であり、彼女本来の気質なのだろう。

彼女の想いの強さと相手を思いやる気持ちは一体どこから来ているのだろうか? これが「呪い」に関係していると本編では語られている。

流石に長くなってきたので、一旦ここで区切らせてもらい、後編からはこの花と樹の呪いについて語っていこう。

 

*1:作中の描写とリリース年をメタ読みすれば2050年あたりか

*2:夢の国から目覚めても(宮田眞砂)など

*3:2023年4月1日時点での現実の日本の十五歳未満の人口は1435万人。

*4:作中では2025年以前に1512万人とある。CLIIの影響で532万人になり、2035年には198万人。2049年では409万人となっている。

*5:伝統的家族主義で人口減少「夫婦別姓や同性婚が風穴に」 人口と世界 大妻女子大准教授 阪井裕一郎氏 - 日本経済新聞

*6:「まず結婚」が招く少子化 北欧は婚外子5割、支援平等 人口と世界 わたしの選択(1) - 日本経済新聞

*7:ただし、美少女ゲームではないが海外の「DON'T NOD」や「Deck Nine」が開発した「Life is strange」シリーズは同性愛について誠実に描き続けてきた。