『対話』とはいったい何だろう?
私は、対話は『人』の形をしていると思っている。
対話は、水中をもがくように他者と言葉をつむいでいく時に苦しい行為で、他者に寄り添いあうことができる素晴らしい行為だ。
論破のような、その人を敵とみなし口撃するような排他的で競争的なものとはまったく違う。
対話とは、ある事柄に対してその人と協力して答えを見つけていくもので、対話はその人、つまり『あなた』がいなければ成立しない。
だからこそ、対話は人の形をしている。
インターネットやスマホの普及により、SNSなどで簡単に他者とつながれるようになった。しかし、SNSなどの視覚優位の媒体では飛び交う言葉から微妙なニュアンスを拾うのは難しい。
SNSでのやり取りは、対面で話すような対話とはまた別のコミュニケーションだろう。
このブログだってそうだ。ツイッターなどとは違い、文字数の制限はないが対話はできない。一方通行で、『あなた』は言葉を受け取ることしかできない。
これは、数多ある音声作品も同じだ。
音声作品はその性質上、終始受け身であり能動的にはなり得なかった。
たとえば、物語を味わう作品として、ビデオゲームはどうだろうか。
プレイヤーはコントローラーを握り、キャラクターを操作し、物語をプレイする。これほどわかりやすく体験できるロールプレイングは、LARP(ライブRPG)などのほか、なかなかない。最も能動的で伝わりやすい媒体だと言えるだろう。
ただし、ビデオゲームも決められた操作、物語の文脈に沿うことしかできないといった点が挙げられる。しかし、それらはメタフィクション的な作品(DDLCやMGSシリーズなど)によって一定の打開は為されている。
大衆文化として一番身近なはず(今の時代は必ずしもそうだと言えないかもしれないが)の読書でさえ、頁をめくるという能動的な行為が発生する。
受け身で味わえる作品というのは映画だろうか。ただし映画も、音や映像を手がかりにシンク(思考)する必要がある。
音声作品はともすればその必要すらない。再生ボタンを押す、ただそれだけでいい。
焚き火をながめる動画と同じで、何も考えずにボーっとしていれば過ぎてしまう。音声作品は癒しに満ちていればそれでよかった。
だが、視聴者というのはわがままなもので、そういったものにもすぐに飽きてしまう。癒やしの空間というものに慣れてしまい、少し経つとすぐに別のコンテンツにいってしまうのだ。
寝る間際の癒やしという点で、これらの作品はとても有用だ。しかし、睡眠導入用音声作品はあくまでも睡眠導入用でしかなかった。受動的であるからこそ意味があり、しかしそれらは刹那的で、心にまったく残らなくても良しとされてきた。
では、音声作品は能動的になり得ないのか? 心に残る名作たり得ないのか? と問われたら、数多の音声作品を聴いてきた紳士淑女諸君は自信を持って答えるだろう。「ノー」と。
それらは睡眠導入用音声作品と対極にある。
能動的で、永劫的で、心に残る音声作品。
それが、今回挙げたかったイルミラージュ・ソーダだ。
この作品は、とある少女との終末の記録を綴った音声作品だ(と思われる)。
とある少女、水仙サカナは終わる世界を、先生と呼ぶ人物とともに過ごす。
通っていた学校で二人きり。水仙サカナと先生以外は誰もいない空間。
なぜここにいるのかわからず、なぜ終わるのかもわからない。水仙サカナが誰なのかも「あなた」は最初わからないだろう。
ただ一つわかるのは、水仙サカナが魅力に溢れた人物だということだ。
水仙サカナがいなければこの物語は成立しない。彼女はとても聡明で、理知的で、大人びている。同時に、少女特有の不安定さ、年相応の幼さ、愛らしさを秘めている。それはたぶん、先生である「あなた」にしか見せないすがたなのだろう。
彼女の魅力は、ぜひ本編で味わってほしい。
「イルミラージュ・ソーダとは何か?」
と聞かれたら今までの私は
「聴く美術作品」
と答えていた。しかし、最近になって考えを改めた。というのも、とある演劇にいたく感銘を受けたからだ。
今聞かれたら、こう答えることにしている。
『対話型百合音声作品』
と。
対話とは、『ある事柄に対してその人と協力して答えを見つけていく』行為だと、私は言った。
イルミラージュ・ソーダを聴いているさなか、ずっと私は彼女に問いかけられていた。
「イルミラージュ・ソーダってなに?」
と。
彼女と言葉を交わすことはない。正当な意味での(他者との)対話ではないのかもしれない。
しかし、イルミラージュ・ソーダは水仙サカナとの、そして自分自身との対話であると私は断言できる。
だからこそ、あなたはあなただけの答えを探してほしい。
『イルミラージュ・ソーダって、そういうことだったんだ』と。
その感覚を、あなたにも味わってほしい。
イルミラージュ・ソーダを通して、彼女と、そして自分自身と深く対話してほしい。
対話ではない、この一方的な文章をここまで読んでくれたあなたに、私は深く感謝する。
そして、イルミラージュ・ソーダを聴いてくれたあなたといつか、対話できる日が来ることを、祈っている。